あるべきようは
「阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)」は明恵上人の座右の銘である。
仕事の帰り、DVDを返却しようと「TSUTAYA」に立ち寄った。河合隼雄さんの本が目にとまり明恵の名前を見つける。
何か懐かしい気持ちがして、河合隼雄さんの書いた「夢と生きる」を思い出した。
本を読んだときの明恵上人の印象はすごく爽やかなものであった。今の時代に現れても直ぐ暮らせるような自我と自由さを感じた。
閉塞感を感じる現代でも、彼だったら自由闊達に生き生きとやっていけるような気がして懐かしくなったのである。
鎌倉時代、法然の他力本願とも浄土とも対峙して論争している。自力で、現在を《あるべきようは》に生きようというのである。
ただし、「あるがまま」という母性的な逃避になりがちなものでもなく、「こうすべきであるという」父性的で高圧的なものでもない。本来どうなるものなのか本質をよく見つめようということなのである。
一方的に攻めるものでもなく、かといって一方的に守るものでもなく、力を抜いて何処に落ち着くのが自然なのかを考えてみたい。
それには、いわゆるセンスを鍛えることが必須であることに注意せねばなるまい。
仕事の帰り、DVDを返却しようと「TSUTAYA」に立ち寄った。河合隼雄さんの本が目にとまり明恵の名前を見つける。
何か懐かしい気持ちがして、河合隼雄さんの書いた「夢と生きる」を思い出した。
本を読んだときの明恵上人の印象はすごく爽やかなものであった。今の時代に現れても直ぐ暮らせるような自我と自由さを感じた。
閉塞感を感じる現代でも、彼だったら自由闊達に生き生きとやっていけるような気がして懐かしくなったのである。
鎌倉時代、法然の他力本願とも浄土とも対峙して論争している。自力で、現在を《あるべきようは》に生きようというのである。
ただし、「あるがまま」という母性的な逃避になりがちなものでもなく、「こうすべきであるという」父性的で高圧的なものでもない。本来どうなるものなのか本質をよく見つめようということなのである。
一方的に攻めるものでもなく、かといって一方的に守るものでもなく、力を抜いて何処に落ち着くのが自然なのかを考えてみたい。
それには、いわゆるセンスを鍛えることが必須であることに注意せねばなるまい。
by coolkai
| 2006-03-03 19:51
| 哲学する