カテゴリ:哲学する( 29 )

 私たちが思い浮かべる過去から現在に連続的に流れている「時間」は物理的時間としては存在しないという意味である。

 物理的なジカンは存在するだろう。しかし、それは私たちが感じる「時間」とは似ても似つかないものかもしれない。

 前回話したように「爽やかな音」や「赤い色」は、感覚器官が感じ取る「現象」で物理的な「実在」ではない。

 「時間」もそれに近いが、それを感じ取る感覚器官はない。しいていえば脳の意識が「時間」を感じる感覚器官だと言えないことは無い。

 つまり、「音」や「色」に比較して「時間」は、より高度な「現象」ということである。

 人類が長い悠久の時間の中で発達、進化するのに従って、聴覚、色覚を手に入れ、最後に時間覚を獲得した…と思う。

 目的は何か?「自我=自己=self」の統一に決まっている。生まれたときの自分と50歳になった自分が同じ「自己」である為には時間が連続的に一本の線となって流れてくれなくては困るではないか。

 傍証は色々ある。生まれてからの認識をたどると音、色、形、時間の順番に認識していくのではないだろうか。

 統合失調症や鬱病の人の場合の時間認識がしばしば普通の人と異なることは良く知られている。

 「時間」がぶつ切りになったり、垂直に流れたりすると表現される。実はこの感じのほうが物理的な「ジカン」に近いのかもしれないのである。

 これが生きる根源的歓び、死への根源的恐怖が何かを理解するのにヒントを与えてくれるのかもしれない。
 
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 またまた変なことを言うな〜と、思っていらっしゃる貴方、まあ、聞いてください。

 ここで言っている「音」は人間が聞いて感じる音のことである。

存在しないという意味は人間の頭の中で鳴り響いている「音」は、客観的な物理量ではない、客観的な存在ではないという意味である。

 ご存知のようにsoundは「空気の振動」である。それを「音」として感じるのは人間の耳と言う感覚器官である。運悪く事故で耳を怪我をすれば聞こえないかもしれないし、そもそも耳という感覚器官をもたないウイルスには「音」としての存在はないだろう。あるのはsoundとしての「空気の振動」である。

 これは「赤い色」についても同様である。血の滴るような「赤」は人間の目という感覚器官がもたらすものである。ミミズには「赤」は無い。存在するのは、ある振動数の「電磁波」である。それが血の滴るように感じるには人間の感覚のなせる技である。

 ここまでの話は次回の話の前振りである。
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 世の中は非対称である。

 私の手は二つあるのだが右利きであり、心臓は一つしかなく(毛は生えていません)左についている。利き目、利き耳というものもある。一方、腎臓は二つあり(利き腎臓というのもあるかもしれない)、移植問題の原因にもなる。

 一つしか無い臓器は勿論、両手でも利き腕が非対称性を導く。その理由は何だろうか?利き腕、利き足を創らなくては生きていけないという意見もある。歩くのに左右の足が公平に権利を主張したら一歩も歩く事ができないというのである。

 では何故右利きがこんなに多いのであろうか、左利きと半々存在していていいのではないか。他の臓器の位置関係も影響しているかもしれない。もし、そうなら臓器全体が左右反対でも構わないではないだろうか。実際、右に心臓がある人も実在するようである。

 非対称性にも、それなりの理由があると思うのである。銀河の回転の方向が太陽系に影響を与えているだろう事は想像に難くない。反電子の回転は普通の電子と回転が逆であるのだろうか。

 どこかで左右の定義は案外難しい、いや本質的に定義は不可能である…というような話を読んだ気がするのであるが、ご教授いただければありがたい。
 
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 科学とは同じ条件で行えば、どなたでも同じ結果が得られる理論を指している…らしい。

 曖昧な書き方をしたのには理由がある。確かに1+1は誰がやっても2になるであろう。だから、これは科学的な結論といっていいのだろう。

 では、進化論はどうであろうか?困ったことに同じ条件で実験をすることはできない。だって、過去には戻れないから。

 つまるところ進化論は、良く言って「物語」としか言いようがない。

 心理学はどうであろうか、これは現在の人間の心理を扱うから問題はないような気がする。しかし、同じ条件でといわれると、これが難しい。実験する人も実験される人も互いに人である。その間の「心理」がいつも同じであるわけがない。その他にも問題点が多々ある。例えば知らず知らずの内に価値観が入ってきて困るのである。暗い人より明るい人の方が優れているのだろうか?肉親が亡くなったときに悲しみに打ちひしがれて鬱状態に陥ることはマズイことなのだろうか(奥様の死後、落ち込み寝込んでしまって後を追うように亡くなってしまった知人の話などよく聞くのだが…)

 結局、心理学をもとに組み立てられるカウンセリングの目指すことは世の中でそれほど支障なく生活できるか(世の中の役に立つか?)という観点である。その観点からすれば2006年の日本では暗い人よりも明るい人、恋人が亡くなっても早く立ち直り元気になる人が望ましい。そういうことである。そういう「物語」ではあるが、およそ科学(正しい)とは思わないほうがいいのではないだろうか。

 風邪を引けば熱が出る。ほとんど熱の出ないような頑強な体が世の中では便利かもしれない。恋人が亡くなれば鬱になる。すぐ立ち直る人がしっかりした人ということかもしれない。

 でも、風邪をひいて熱て寝込んでも、恋人の死で鬱になっても仕方がないではないか?周りが困るということだけで、本人を直す必要もないことではないか(うっかり直したりすると詩も音楽も小説も映画も作られることがなくなってしまうかもしれない)。

 発熱をし、鬱になる方がマトモだということもあるのではないか、と風邪ひきの管理人は自分勝手な「物語」を作ってしまうのだ。
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今日9/21は賢治忌である。

 宮沢賢治はファンも多く、それぞれ色々な思いをお持ちであろう。

 「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」等々独特の雰囲気に浸ったものである。漫画では「アタゴール物語」が最も似ているだろうか。
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 養老孟司さん(ちくま学芸文庫の「カミとヒトの解剖学」)によると三島由紀夫は「目」の作家、宮沢賢治は「耳」の作家であるという。三島は生まれたときの記憶があり産湯を見たという。宮沢賢治の小説には例えば「オッベルと象」の中で、稲こき機械が回る「のんのんのんのんのんのん」などの音が溢れていて、三島の小説には音が表に出てくることは少ない。

 視覚優位な場合と聴覚優位な小説家の場合では耳の方が難解で深いという。「目」を扱う脳の部分が「耳」を扱う部分よりも脳の表面に近く、発生学的にも新しい。
 扱うのも言語化された理論的なものをあつかう。

 一方「耳」を扱う脳の部分はより深い場所にあり、意識としても未分化なもの、言語化されづらいものをあつかう。

 宮沢賢治を読んでいると、鉱物や星や花の感覚が実体化してきて稲垣足穂翁のいうA感覚に入り込んでしまう。
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 数日前に書こうとした。

 しかし、色々調べるうちに愛するものを奪われた人、現在も後遺症で苦しんでいる人などのことが、どんどん鉛のように重くなり、結局書くことができなかった。

 死刑で購えるほど彼のしたことは軽くない。

 しかし、冤罪になりそうだった松本の河野さん(テレビや雑誌での言動を知るにつけ知性的な人だと思う)が「サリン事件が何だったかを知りたい、死刑を宣告するだけが裁判ではない」というような趣旨のことを語っていた。

 私もそう思う。善悪を超えて世の中で起きること、存在するものには何かの意味がある。たとえサリン事件でも。

 されば、その意味を知りたい。そうでなければ、亡くなった方々や現在も苦しんでいる人たちも救われない。

 それは、自分の意志でなく世の中に出現した自分達の「生」を考えることと同値であろう。
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 前回の「同じと違う」の続きである。

 「a tree」といえば、頭の中のプラトン流のイデア的な概念であり同じことがあり得る。

 「the tree」といえば現実の世の中にある具体的な木のことである。

 そういえば「a」には同じという意味があった。

 「The birds of a feather flock together.」

 概念としての同じ羽を持つ具体的な鳥たちが一緒に集まるのである。
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 「同じ」の反対は「違う」ではない、と養老孟司氏はのたまう。

 ムムっ!異なことを!しかし、氏の主張を読んでみると納得した。

 数学の授業でベクトルがでてくるとき、「同じ」とは何かよく生徒に問いかける。二つのベクトルが与えられたとき、それが「同じ」になる定義をしなくてはならないからである。

 生徒は「同じ」を定義すること自体が不思議のようである。同じは同じに決まってるジャン、というわけである。

 しかし、そう簡単にはいかない。世の中にある二つのものが「同じ」ということはありえないのである。君の本と僕の本が完全に一致するなら私は泥棒になってしまう。そうではなくて、ある特定の部分が同じに過ぎない。

 では全く同じというものは存在しないのだろうか?その通り、現実の世の中には存在しない。

 しかし、思考の中には存在する。現実に書かれた「1」という数字には厳密な意味で同じものは無い。しかし思考の中の「1」は全く同じであることが可能である。

 つまり、「同じ」と「違う」は住んでいる世界が違うのである。「赤」の反対が「甘い」と言っているようなもである。反意語は同じ世界で考えるものである。「赤」の反対は同じ色の世界で「青」と答えるのが自然だろう。

 その意味で「同じ」と「違う」は反意語になり得ないのである。

 
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 数学にはノーベル賞が無い。ノーベル賞を考えたノーベルは数学者と仲が悪かったというのがその理由だという。それが本当なら何だか大人げないような気もするが。

 今年のフィールズ賞の受賞は難問「ポアンカレ予想」を解決したペレルマン氏に決まった。数学に新たな地平を開いたその業績はだれもが疑わない。

 しかしペレルマン氏はその受賞を辞退した。同氏はフィールズ賞を断った理由を「自分の証明が正しければ賞は必要ない」と説明し、現在の数学界や、有名になって注目される境遇に嫌気がさした気持ちを吐露したようである。

 いい加減な管理人からすれば、無理してもらうこともないが、敢えて断ることも無いような気もする。しかし、真理や美を純粋に求めて栄誉という世俗からは離れていたいという気持ちはそれなりに気高いものだとも思う。

 そういえば日本に残っている曼荼羅の多くは作者不明であるという。良い作品を残すことに集中して、自分の名前を残すなどという発想は無かったに違いない。

 自分だったら信頼する人に認めてもらえれば十分満足であるような気がする。もちろん栄誉も賞金も拒みません…なんてネ。
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 信州では、今日はお盆の最終日、送り火をたく日である。この送り火とともに亡き人の魂も帰っていくのである。

 地獄と極楽について書くにはうってつけの日である。

 地獄と極楽はある種の極限である、と養老孟司さんはいう。例えば極楽は快楽無量といわれる。つまりこの世の快楽の極限値というわけである。これは具体的な説明になっていない。気持ちの良い音楽が流れ、気持ちのよい香りがして、素敵な女性がいっぱいいる(これは管理人coolkaiの追加です)。非常に抽象的でイメージが浮かばない。

 一方地獄は天国に比べてかなり具体的である。血の池地獄、針の山など。現実のこの世は地獄に近いということであろう。しかしこの世、現世の極限であることに変わりはない。

 ご存知のように極限というものは無いものを存在させる技である。つまり形式でもって実体に替えるのである。いわば現世のコンパクト化である。

 地獄や天国を言葉で何とか解説しようとすると言葉の外に出てしまうのはこんな事情からである。その説明がインチキなものでなくても、訳の分からない説明になってしまうのも無理が無いのである。
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