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 大掃除、いや中掃除かな。

 年越しの準備に朝から掃除である。ご推察のとおり、私は大して働いていない。窓ふきをするのがやっとである。我が家の真の主が大活躍である。

 子供達もよくしたもので、大掃除が終わるまで帰省してこない。うっかり帰ってくると手伝わされるのを警戒しているのである。

 もっとも娘は午後4時まで、息子も夕方まで仕事では、そう簡単には帰って来れまい。

 作戦通り大掃除の終わった明日、大晦日に帰ってくるという。二人とも結婚していないので家族4人の年越しである。

 久しぶりに色々な話をしたいと今から楽しみにしている。
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by coolkai | 2005-12-30 19:18 | 家族

同じと違う

 同じと違うは反意語ではない。

 私はあなたと同じ靴を履いていると言ったら、私は泥棒である。論点を明確にするために少し極端な話をした。

 厳密な意味でいったらこの世の中に同じモノは2つとないのである。
同じ会社の同じ製品の同じサイズの靴でも紐が0.01mm長いとか、作られた時間が2秒早いとか、その2秒の間に宇宙からの放射線があたって粒子が一つ変化したとか、とにかく違うのである。

 結局、同じと見るか違うと見るかは、この観点(同値関係)では同じになり、この観点では違っていることになるというだけである。この本では互いに補完的という言い方をしている。

 そのとき問題になるのが脳の癖である。人間の意識は可能な限り《同じ》と思いたい癖があるというのである。
自分は生まれたての自分も白髪になった自分も同じ自分であると思っている。よく考えてみればそんなはずはない。体中の細胞は1年も経てばすっかり入れ替わっているというではないか。

 身体はそうでも精神は変わらずに自分を決定しているモノがある。という反論もあろうが本当にそうだろうか?小学生のときの幼稚な自分と現在の自分と精神の部分は同じであるのか?そうではあるまい。

それでも目が覚めるたびに自分であることに疑いを持つ人はいない。これが精神の持っている働き、機能であり癖である。
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 山野草に興味のある人なら、可憐な花が目に浮かぶかもしれない。

e0020386_18204288.jpg 昨日12/27(火)は学校の忘年会、会場は「二人静」というホテルである。今年は色々な都合で何回か泊まる機会があった。料理も美味しく、名前の通り山際に建てられた野趣あふれるホテルである。特に和風の新館はしっとりとした趣で二人で静かに過すには絶好であろうが、独りうるさい私のような人間には向かないかもしれない。

 少し早めに出かけて露天風呂へ。すぐそこまで山が迫り、積もっている雪を見ながら入るお風呂は最高である。

 宴会は、クイズ、ビンゴ、歌、踊りありで盛り上がった。女装したハワイアンは中々恐ろしく、かつ可笑しく絶妙であった。
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公と私(publicとpraivate)

以下《私》とは公権力が認める社会の最小単位と定義する。

西欧では《公権力》と《個人》のことである。権力は放っておくと何処までも自己を侵害する。対抗策として、社会を構成する正式な最小単位として《個人》を公権力が認め、それにも権力を与えた。それが《個人》の権力=人権である。従って《個人》の内に自分が存在する。

日本では、実は《世間》と《家》になる。世間が公式に認知する社会的な最小単位は《家》である。そこでは自己などは世間的には無意味なものであった。したがって《家》のためには切腹もやむを得ず。森林太郎もエリスをあきらめるしかなかった。

以前、森鴎外のお墓を訪ねたことがある。そこには、何々家という文字は彫られておらず、森林太郎という個人名のみが彫られていた。最後に《家》から解放され《個人》として死にたかったのだろうか?
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 横山 秀夫原作のミステリーの映画化である。

 ミステリーといっても、謎解きを楽しむとか派手な展開があるわけではない。
 松本清張の作品のように、ミステリーを通した純文学である。

 テーマは安楽死である。いや、それも素材に過ぎないかもしれない。

 法律は世の中で起きる事柄すべてに判断を下さなくてはならない。しかし、法律を超えた問題も存在している、というのがメインテーマであろう。

 法律は、ある一つの公理系に過ぎない。不完全性定理がいうように、当然その中では判定出来ない問題が存在する。安楽死はその問題の一つであるというのが、この映画の主張である。

 以前、やや興奮気味にカウンセラーの話をした。死に対する相談の多くは心理学、カウウンセリングという公理系の外にある問題であろう。

 法律も、カウンセリング、心理学も万能ではない。神の判断を仰がなくてはならない問題も多く存在する。

 人間は、もっと”死”《コントロール出来ないもの=自然》に対して謙虚でなくてはならないだろう。

 映画のできは大変よく、久しぶりに見入ってしまった。
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 朝7時に起きて雪かきである。

 寒い上に昨夜から雪が降った。それほど積もっていなかったが、何しろこの寒さである。素早く雪かきをしないと凍って危ないのである。
 
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最近のクリスマスイブはいつも「宮坂ピアノ教室」の発表会である。もちろん私がピアノを教えているわけではない。できるのは「ホラ」と「三味線」である…というのは冗談だが。

 このお手伝いが大変である。椅子の準備、片付け、そして何より大変なのは音響室に入っての録音である。
 出演者一人一人の演奏を2台の機械を使ってCDに録音するのである。取り直しが利かないので非常に緊張する。

 昼頃には演奏会も無事終わり、戴いたお花を持って岡谷の父母のもとへ。

 私の指圧が評判良い(自分でも自信がある)ので、時間が空けばできるだけ出張按摩に行くことにしている。特に今日はクリスマスイブ、何といってもお花とケーキと指圧である。

 皆様にもひと言、メリークリスマス!
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by coolkai | 2005-12-24 21:07 | 家族
 
「ジブン」と「I(アイ)」

 明治時代、屈指のインテリである森鴎外と夏目漱石は日本的な「ジブン」と西洋から輸入された概念、主体的自我「I(アイ)」との間で苦しんだ。

 日本語の一人称は摩訶不思議である。一人称はボク、ワタクシ、ソレガシ等々たくさんある。
 それどころか「ジブンは長野県人である」と使ったり、関西では「ジブン、人参嫌いやろ」とyouの意味で使ったりする。ハッキリ言って滅茶苦茶である。

 それは、次のことを意味している。
 
 明治以前、日本には世間における立て前の「ジブン」はどんな呼び方でもよかったし、歌舞伎などの襲名披露などでみられるように名前だけ、肩書きだけが世間で必要で、通用するのである。

 もちろん、その為にはホンネとしては、相手のことはしっかり分かっているというのが前提である。だから、その場その場に合わせて適当に一人称を変えても大丈夫なのである。

 そこへ、西洋から「西欧近代的的自我」なるものが入ってきた。
 I am a boy. の I(アイ)である。そこでは「西欧近代的自我」を表す言葉は I 以外に無い。そうやって使っていると「西欧近代的的自我」に対応する主体がいかにも存在している錯覚を持ち、いずれ本物の主体的実存(=感覚的にも実際に存在しているような感覚を持つような存在、簡単に言えば、その人にとっての現実)になってしまう。

 日本の一人称のように、しょっちゅう名前が変わったり、youの意味になったりしていたら確固たる I という存在になるはずも無い。

 主体的実存は人によって、「お金」や「北朝鮮」であったり、「『軍国』日本」や「課長」、「校長」であったりする。

 しばらくの間、脳をその現実漬けにしておけば、誰でも何でも現実になるのである。それを、洗脳という。

 こんな一人称の日本の世間では、そんな「自我」が輸入されても何のことやら分からなかったろう。
 
 最初にいった、夏目漱石、森鴎外の苦しみの正体は、この伝統的な日本の一人称と「西欧近代的自我」との相克であったろう。二人はさすがにインテリであったということか。
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 三者懇談のシーズンである。

 三者懇談というのは教員、生徒、保護者の三者で行う相談会のようなものである。
 教員も準備などで大変だけれど、お家(うち)の方も中々大変である。会社を休んだり、仕事が終わって直行で学校にお見えになる。

 しかも学校で誉められることはあまり無い、だいたいお小言を頂く。我が家の愚息で体験済みである。

 だから、学校と病院は気が重い、少なくとも私はそうであった。

 それでも、お家(うち)の方が寒い中、相談に学校へ向かう。子供への愛情を感じる時期でもある。

 子供を伸び々と育てるにはどうしたらいいのだろうか?親の出来ることは?相談されることもあり、自分でも気になっている問題でもある。

 勿論い色々な場合があるだろうし、考えがあると思うのだが、これもその一つではないかと思う。

 それは、どんなことでもいいから、勉強でも運動でも無遅刻でも新聞配達でも、その子なら出来ると思うものを発見して、絶対に出来ると本気で信じることである。自分の信頼する人が出来ると信じていれば、子供達も自分を信じることが出来る。そうすれば必ず出来るのである。これが良循環を生む。

 数学の世界で何年も大勢の数学者が挑戦し続けている問題があったとする。ここで誰かが解決したとすると、不思議なことに世界中のあちらこちらで問題を解く人が続出するのである。

 勿論、ニホンザルのイモ洗いが瞬時に日本中に伝播したことが示唆するように、共時性で説明出来るという意見もあるだろうが、どうやって問題を解いたかよりも《解けた》という情報が本質的に決定的に大事である。

 つまり解けるかどうか疑心暗鬼に思っていた問題が現在の数学のレベルで頑張れば解けることが分かったのである。こうなれば自信を持って進めるというものである。

 子供達も出来ると思えば夢に向かって進めるのではないのだろうか!
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by coolkai | 2005-12-20 22:34 | 学校
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本の月刊誌「ダヴィンチ」が選ぶプラチナ本の年間ベストワンである。

 原爆、反戦を描いた漫画といえば、私の年代では、中沢啓治の「はだしのゲン」であろう。  

 しかし、私はこの漫画で原爆や、反戦について思いを馳せることは無かった。情報を伝える手段としての漫画としか思えなかった。それなら漫画でなくても良い。同様なことは反戦を訴える絵画や歌にも感じてしまう。

 現在は、「はだしのゲン」の頃の時代とは状況が違う。webで検索すれば情報はかなり手に入れることが出来る。

 作者のこうの史代さんは直接的な表現を可能な限り避けている。親戚に被爆体験者がいるわけでもない、普通の一般の社会人、しかも現在の人間にとって被爆とは何か、戦争とは何か、強い意志の元に抑制された表現でひたすら何ものかを描く。

 読み終わって、ひと言では要約出来ない胸の澱に気がつく。

 それを、大事に慌てず、考えていきたいと思う。

出版社:双葉社
作者:こうの史代
発売日:2004/10/12
定価:840円
判型:A5判
ISBN 4-575-29744-5
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 名伯楽といえば、ご存知のとおり才能のある人を見いだし育てる名人をいう。
 
 オリックスの仰木監督がお亡くなりになった。
 あのイチローを育てた人である。

 日本にいた最初の頃、イチローは1軍と2軍を行ったり来たりしている平凡な選手であった。しかし、仰木監督の慧眼が彼の能力をいち早く発見して世界の一流選手に育てた。

 フィギュアースケートの浅田選手を見ていても、山田コーチの名が浮かんでくる。伊藤みどりの先生でもある。

 やはり、良き指導者というものが良き才能を育てるのだろうか。

 しかし、そうではないと中国の古典が教える。

 〈世に伯楽あり、然(しか)る後に千里の馬あり。千里の馬常にあり、伯楽常にはあらず〉

 一日千里を走る名馬はなかなかいないように思えるが、実は名馬はいつでもいる。そうではなくて、その馬を見分ける眼力のある伯楽がいつの世にもいるとは限らないというのが真相であるというのだ。

 そういえば、我々YSTM(横田先生を中心とするLie群研究会)にも横田先生という名伯楽がいる。

 他のメンバーと違って私は駄馬であるが、この名伯楽の偉大なるオーラによってなんとか数学の落ち穂拾いをさせていただいている。
 
 あらためて、人との出会いの貴重さを感じ、感謝の気持ちが湧いてくる。
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