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 今日は見たい記者会見が二つあった。

 民主党の永田議員の謝罪記者会見と、フィギュアースケートの荒川静香さんの凱旋記者会見である。

 テレビのニュースで見ることができた。永田議員はひたすら練習通り謝りどおしであった。国会での質問は善悪、真偽はともかく勝負としては完全に負けである。

 ライブドアがバーチャルで虚業だとしても、永田議員の質問がリアリティーを失ってしまったのは皮肉なものである。

 荒川さんは相変わらずクールビユーティーでお美しい。男に媚びない自立したレディーの凛とした様子が清々しい。

 両者とも渦中の人である。時代の、世間の前面に押し出されることがいつ起きるか分からない。望んだことかもしれないし、望まないことかもしれない。

 どんな場合でも、自分を見失うことなく正直に自然体でいられたらいいのだが…。
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 今年はモーツァルト生誕250年で有名であるが、どっこいショスタコーヴィチの生誕100年でもある。

 モーツァルトのように誰にも愛され、演奏される作曲家とは言いがたい。

 昨晩2/26(日)「アンサンブル信州in宮田」のスプリングコンサートで、そのモーツァルト「ピアノ四重奏曲第2番変ホ長調K.493」とショスタコーヴィチ「ピアノ五重奏曲ト短調作品57」を聴いた。

 室内楽好きな私としては願ってもない演奏会であった。

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 美しい自然なメロディのモーツァルト、難解で思想的・哲学的なショスタコーヴィチ、大人のためのプログラムである。

 特にショスタコーヴィチには衝撃を受けた。

 スターリン体制下の旧ソ連で生まれ、体制賛美をしなければ文字通り生きてゆけなかった。しかし芸術家としての思いは抑えきれず作品の中に現れる。

 一筋縄ではいかない作曲家である。作家の半村良の作品のように、分かる人には分かるように二重に描かれているのではないだろうか?

 表向きの表現とは別に同時進行で、別な物語が紡がれているのである。


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 演奏会の後の懇親会で、モスクワ音楽院出身のチェロ奏者ドミトリー・フェギン先生(何と!!お父さんはショスタコーヴィチの友人)と、ヴィオラ奏者の兎束先生とお話させていただいた。
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by coolkai | 2006-02-27 19:25 | 音楽
荒川静香さんが金メダルをとった。すごく奇麗で輝いていました。

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 どう表現していいのか分からないが、彼女の滑りに知性と意志の強さをいつも感じる。

 さて、タイトルの「トゥーランドット」は荒川さんの演技のときに使われていた曲で、ご存知プッチーニの有名な歌劇である。トゥーランドット姫の三つの謎に求婚者が挑む。

 その最後の謎は「人を炎で燃え上がらせる氷とは?」、答えは「それは、トゥーランドット姫、貴女です」というカッコいいものである。

 謎といえば、スフィンクスの謎も有名である。それは「朝は四つ足、昼は二本足、夕べは三本足」で、答は「人間」というものである。

 謎解きは色々なバリエーションがあるようであるが。謎には正解は無いのではないかと思う。

 ロールシャッハにおける答え、禅問答のときの公案、そして易判断も同じである。その理由を語るには紙面が少ないので次の機会にまわすことにする(フェルマーのような言い訳?)。

 結局は「暗黙知」が通じ合えば正解なのだ。これを答えたら正解というようなものではないだろう。

 少なくとも私だったらそういう「謎」を創る。

 演技の3秒間をカウントするのに、ワン・アイスクリーム、ツー・アイスクリーム、スリー・アイスクリームと数えた荒川さん、開会式でパバロッティが「トゥーランドット」を歌ったとき背中に鳥肌がたったことだろう。

 「運命を感じました」荒川さんの言葉である。
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by coolkai | 2006-02-25 07:13 | 音楽
 京都を出発して、東京へ行く。

 アイヌ語ではそういう意味になる。

 2、3日前の朝日新聞、「反時代的密語」での梅原猛さんの話しである。国語学者、金田一京助さんの功罪を語る。金田一さんの考えでは、アイヌの人達は白人であると思っていたようである。

 しかし、現在ではアイヌの人達は縄文人の末裔であるというのが定説である。
 「成人性T白血病」という病気を追跡した有名な研究を思い出した。それによると、縄文人は大陸からの渡来人(弥生人)によって、北海道と沖縄に押し出されたことが分かる。

 現在の日本人は縄文人と渡来してきた弥生人との混血である。したがって、我々が今使っている日本語の底には縄文語があり、それはアイヌの言葉と密接な関係がある。

 つまり、縄文語の研究にはアイヌ語が欠かせないのである。そのアイヌ語がほとんど滅びてしまった。このことを梅原さんは嘆く。

 冒頭の「オ京都、エ東京」のオはお尻を指し、エは頭を指す。つまり、京都にお尻を向けて、東京に頭を向ける。京都を発って、東京へ行くという意味になる。

 このオとエが下に降りてきて助詞になったというのが、梅原論である。

 なんとかアイヌ語を復活できないのだろうか?
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 数学的な難しい話ではありません。

 子供達にとっては1/2は0.5よりかなり難しいらしい。

 数直線上に0.5は記入できる。しかし何人かの生徒は1/2の点を描き入れることが出来ない。

 0.5は名詞であり、止まっているが、1/2は1を2つに分ける動詞のように感じているのかもしれない。

 0.5は0.5という表示しかないが、1/2は2/4になったり。3/6になったりするから困ってしまうのである。

 計算も分数の方が圧倒的に難しい。
 分数の足し算、引き算は通分や約分という操作が必要である。しかし小数のときにはそんな七面倒くさいことは必要がない。

 でも、小数も難しいときがある。例えば2.4時間というような場合である。
 ご明察のとおり、2時間40分という誤答が出てくるのである。

 我らがグル(導師)Y先生の鋭い分析によると、小数をあつかうのは物理、工学であり、分数を用いるのが数学であるとのことである。 
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e0020386_2172228.jpgウィトゲンシュタインLudwig Wittgenstein( 1889-1951)の「論理哲学論考」に書かれている。最後の一文である。

 空海の「生まれ生まれて暗し、死に死にて冥し」を思い出した。人智の、言語の、思考の限界を超える世界は暗闇に没し、沈黙するしかない。

 しかし、そんなに悲観しなくてもいいのではないか。私は、その暗闇から光が出てくるのだと思っている。

 そうやって、暗闇(言語化出来ない思考)から光(言語化できる思考)が、逆に光の世界から暗闇の世界へと、行ったり来たり出来るような気がする。

 そう、私はけっこう楽天的なんです。

 ゲーデルの「不完全性定理」があろうと、空海に言われても、ウィトゲンシュタインに言われても、な〜に!暗闇に突き当たっても、潜って又光りの言語の世界に出てくればいいじゃんと、思ってしまう。

 要するに光の当たるところは見えるが、そうでないところは見えないと言っているのではないか。

 そりゃ、そうだろう。でも当てる場所を変えれば、新たに明るいところと暗いところができるってことだよね。

 でも、全部に光を当てられるような懐中電灯は無いってことだけは、肝に銘じなくちゃね!
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e0020386_21132015.jpg顔を少し傾け、やけに首の長い憂いに満ちた女性。

 モディリアーニが描く女性である。天才画家モディリアーニとその妻ジャンヌの嵐のような生涯が描かれる。

 20世紀前半、第1次世界大戦後のパリ。エコール・ド・パリ(パリ派)と呼ばれる天才芸術家がサロンに集まる。

 色々な画家達がまるで風刺画の世界の登場人物のように表現される。ピカソなども気の毒なくらい俗物に描かれる。しかし、じっくり見ていくと風刺画の俗物達の底辺に流れるすぐれた才能と高慢さ、情熱に気がつく。

 最後が悲しい、破滅的な人生が圧倒的な迫力で描かれる。

 そこに天才という神から与えられた才能の鳥肌が立つような凄みと、本物の恋の残酷さが殴りつけるように観る者に与えられ、しばし呆然として動けない。☆☆☆☆★
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 BSEとは Bovine Spongiform Encephalopathy(牛海綿状脳症)の頭文字である。ご存知のようにヤコブ病との関連が疑われている。

 ア○○カの食肉団体の圧力は相当なものである。ブ○○○大統領は食肉団体から多大な寄付を受けていて、何人かを農務省の主要なポストに付けている。はっきり言えば癒着である。

 BSEの記事はア○○カではタブーである。うっかり書いたりすると、よってたかって訴訟になり、相手にはお金も権力もあるので裁判に勝つ。そして社会的に抹殺される。

 なにしろア○○カは、自身はBSEが発症した国からは牛の輸入はしない。しかし日本に売るときは平気であるという立派な考えの持ち主なのである。

 基本的に我がままな自己中心的な国なんだよね。そこに、どうしても人種差別的なものを感じてしまうのは被害者意識が強すぎるだろうか?

 最近のニュースでみるとヘタリ牛と言われたものは足の怪我をした牛であるという訂正がなされた。そんなに、食の安全性に絶対の自信があるのなら、若い牛を丸ごと毎日自分たちの子供達に食べさせることができるだろうか?

 残念ながら、悲しいことに日○政府も当てにはならない。拉致されても沖縄で悲惨なレイプがあっても自国で裁判も出来ないような政府である。自分の身は自分で守るしかあるまい。 

 前向きに考えられない社会の状況に、すご〜く不満たらたらである。
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 ユング派の心理学者河合隼雄さんの言葉である。

 文科省と組んで配布した「心のノート」では少しミソを付けた感のある隼雄センセイだが、タイトルの言葉には、そうそう上手いこと言うな〜と、感心しました。

 不肖、ワタシなんぞは緊張する真面目な場面に成れば成るほど、どうしてもギャグを言いたくなって顰蹙を買うことが多い。病気であると診断してくれる愛情ある友人も数多くいる。

 長年の経験で勝手に判断すると、二流には余裕の無いモノが多い。真面目に徹しきれずに威圧感や大げさな見せかけで胡麻化しているのである。総じて後味の悪いモノが多い(人、話し、本、映画、音楽、食べ物、絵画などすべて同じことが言えるような気がする)。

 一流は、もちろん不真面目というのではない。真面目さの中にも余裕と膨らみや展望がある。接した後で何だか元気のでることが多い。

 三流の自分としては、せめて一流に見せかける偽造だけは避けようと思うのだが凡人の常として見栄を張ってしまうこともあり、それに起因する自己嫌悪も日常茶飯事である。

 車のハンドルも《アソビ》が無くては即、危険運転、事故につながる。
 
 ましてや、人間や社会は車などとは比較にならない程複雑なものである。
 そこに《アソビ》が無いとしたら、事故が起きても不思議ではないだろう。 
 
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2月の誕生日に57歳になる。

 あと3年で定年になる。残り少ない時間を考えると、どんな仕事でも愛おしい。丁寧に味わって働きたくなる。

 そこから先の過ごし方には色々な選択がある。心配も少しあるが、楽しみの方が上回る。

 少し早いが同僚が誕生祝いをしてくれた。話しのきっかけは一枚のハガキである。

 すっかり忘れていたが以前「ムートンブラン」というフランス料理のお店にいった。そのとき簡単なアンケートに答えた記憶がある。そのお店から誕生日のケーキプレゼントの連絡であった。

 ついでに盛り上がりましょうということで同店に集う。少々恥ずかしかったが嬉しくもあった。感謝である。

 どんな年齢でも、どんな状況でも、楽しく過すには良い仲間が大事であるということであろう。
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by coolkai | 2006-02-16 22:20 | 学校