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e0020386_732610.jpg 松本のラーメンの名店「ど根性ラーメン」が閉店してからYSTMのメンバーは寂しい思いをしてきた。

 ところがである、新しい名店を発見しました!

 横田ゼミのときは駅から直接バスに乗って信大に向かうことはほとんどない。途中パルコの本屋で本を立ち読みしてからバスに乗るのである。今日も駅からパルコに向かう途中ふと右を見るとラーメン屋があるではないか、早速店内に入る。店の内装も良く、接客も感じが良い。カウンターとテーブルがあり、カウンターに座る。
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 偶然にも、夏のメニューから秋のメニューに変わる最終日で、名物のつけ麺を食することができた。

 麺は、細麺の縮れである。タレは常温で海産物系をメインに、その他鶏ガラなどがミックスされたもののように思えた。

 美味しい。つけ麺の中ではトップレベルである。他のラーメンんも食べたくなった。

 松本に来る楽しみがまた増えました。(個人的なお詫び。S澤師匠、昨晩はラーメン屋夜12時までやっていました。)
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電話 0263−38−1114
営業時間 (月〜木)11:30〜23:00
       (金・土) 11:30〜24:00
       (日)    11:30〜23:00
年中無休  座席数 24席
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 10/02(月)〜10/07(土)の間、画廊宮坂で個展が開かれる。

 日本画である。具象画かと言われればそのような気もする。しかし徹底的に写実的かと問われれば、いやセンスの良い磨かれた装飾性を感じると答えたい。
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 この金の猫、銀の猫を見ていたら、グスタフ・クリムトGustav Klimt(1862-1918)の絵が浮かんできた。

 しかし、クリムトの絵にはどこか不安を感じさせる通奏低音があるが、川畑さんの絵には柔らかな希望が見える。

 寄り添う二匹には意味がある。手前の金の猫が私で、後ろの銀の猫が貴方とも思えるが、猫の目が問いかけてくるものは、もう少し内面の宇宙に入り込む。手前が「自己」で後ろがユングの言う「自己の影」を感じさせてならない。

 具象、抽象どちらも些細なことだよと言われているような気がして、じっと見ていたら猫たちが空間に浮かび自分も浮遊してきた。少し気持ちが楽になり不思議な旅をした気分である。

実物を見たい方は、是非「画廊宮坂」までお越し下さい。

なお、画像転載に関しては「画廊宮坂」の許可を得ています。)
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 科学とは同じ条件で行えば、どなたでも同じ結果が得られる理論を指している…らしい。

 曖昧な書き方をしたのには理由がある。確かに1+1は誰がやっても2になるであろう。だから、これは科学的な結論といっていいのだろう。

 では、進化論はどうであろうか?困ったことに同じ条件で実験をすることはできない。だって、過去には戻れないから。

 つまるところ進化論は、良く言って「物語」としか言いようがない。

 心理学はどうであろうか、これは現在の人間の心理を扱うから問題はないような気がする。しかし、同じ条件でといわれると、これが難しい。実験する人も実験される人も互いに人である。その間の「心理」がいつも同じであるわけがない。その他にも問題点が多々ある。例えば知らず知らずの内に価値観が入ってきて困るのである。暗い人より明るい人の方が優れているのだろうか?肉親が亡くなったときに悲しみに打ちひしがれて鬱状態に陥ることはマズイことなのだろうか(奥様の死後、落ち込み寝込んでしまって後を追うように亡くなってしまった知人の話などよく聞くのだが…)

 結局、心理学をもとに組み立てられるカウンセリングの目指すことは世の中でそれほど支障なく生活できるか(世の中の役に立つか?)という観点である。その観点からすれば2006年の日本では暗い人よりも明るい人、恋人が亡くなっても早く立ち直り元気になる人が望ましい。そういうことである。そういう「物語」ではあるが、およそ科学(正しい)とは思わないほうがいいのではないだろうか。

 風邪を引けば熱が出る。ほとんど熱の出ないような頑強な体が世の中では便利かもしれない。恋人が亡くなれば鬱になる。すぐ立ち直る人がしっかりした人ということかもしれない。

 でも、風邪をひいて熱て寝込んでも、恋人の死で鬱になっても仕方がないではないか?周りが困るということだけで、本人を直す必要もないことではないか(うっかり直したりすると詩も音楽も小説も映画も作られることがなくなってしまうかもしれない)。

 発熱をし、鬱になる方がマトモだということもあるのではないか、と風邪ひきの管理人は自分勝手な「物語」を作ってしまうのだ。
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 昔から色々な人が「教育」を語る。

 某国の最近立派になられた人物も「教育」について強い決意を語っていた。過去の経験からして体験者以外の「教育論」は大抵危うく、現実味が無いことが多いと心配になってくる。

 素人が手術のやり方でお医者さんに意見を述べることはない。ジェット機の機長に操縦のことで意見を述べることもない。こう考えていたら他人に指導できることなんて自分には何にもないなぁ、と気がついた。

 しかし、「教育」に限っては素人の方でも、特に偉い人々はそれぞれ一家言をお持ちのようで意見を積極的に述べる。ほとんどの人が小学校以来教育を受けてきているので自分でも教育が出来るような気がするのであろう。

 地域によっては校長、教頭から普通の教員に降格を望む教員が激増しているという。

 あっちからも、こっちからも、あれもこれも無限責任(これが日本という世間の特徴)を要求されては鬱病にもなろうというものである。

 若くて有能な人に夢を待たせるような環境ではなくなっているのだろうと思うと何だか寂しい。

 私の危惧が危惧だけで終わればいいのだが…。
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by coolkai | 2006-09-27 20:14 | 学校
 単位をあれこれ考えてみた。
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 まず長さの単位である。1メートルは、現在は1秒の299 792 458分の1の時間(約3億分の1秒)に光が真空中を伝わる距離として定義されている。元々は北極と赤道を結ぶ子午線の長さの1000万分の1で定義されていたが、具体的なものではなくもっと普遍的な定義を考えようということで上記のようになっている。
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 しかし考えてみると真空の定義や1秒の定義も場の状態に依存するのではないかと心配になる。

 重さはもっと心配である。キログラム原器なるものがフランスに保存されていて、その複製が各国に配布され基準となっている。湿度、重力場、温度、空気の状態など重さの単位に不安を持たせる材料はいっぱいある。

 最後には光の早さに単位の基準が帰着されそうで、本当に光の早さは絶対的なものなのか心配になる。

 これほど単純なもの(しかし本質的)でさえ誰が何処で見ても同じであることに苦労している。

 最近、教育の世界でも教員の査定、評価というものが導入されようとしている。客観的な存在とはほど遠い人間を扱う仕事である。そんなわけが分からない仕事の百人いれば百人がそうだと言えるような客観的な評価とは何だろうか?
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 少し風邪気味である。

 土曜日から少し調子がおかしかったが、今日は鼻水がズルズルである。

 昔から風邪を引くとまず鼻にくる。弱い部分からひくようだが、頭からひかなくて良かったというべきか。

 横田先生のお祝いの研究集会で、不肖な弟子である私も発表することになっているのでOHPの準備をする。新しい結果を発表すべきかとも思うのだが、恩師の指導のもと得ることの出来た今までの結果をまとめて話すことにした。論文を整理していると色々思い出され、横田先生の偉大さが分かる。逆の立場であったら、私のような出来の悪い生徒を根気よく教えることは出来なかっただろう。感謝である。

 今日はメートル原器が作られた日だというので、物理的な単位の意味を考える予定であったが明日に回して早く寝ることにする。
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 映像の可能性を感じさせる番組だった。
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 詩、小説、音楽ではこのような表現は難しかったに違いない。
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 違う時代に生活する少年達がタイムスリップして現在と終戦直前で入れ替わる。尾島健太・石庭吾一(二役)の森山未來が上手い。戦時中の若者の気持ちが分かるといえば嘘になるのかもしれない。体験したものでなくては、本当のことは分からない、というのはおそらく正しい。
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 しかし私たちには想像力がある。それは鍛えられるものである。そこに歴史を学び、このような映像を見る意味があるのではないか。

 その裏返しで、自分の体験を表現する意味もあるのだと思う。
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9/23(土)が本番らしいが、今日から高遠町は灯籠祭りである。


 笹竹にほうずき提灯を吊し、夜灯をともして豊作を祝う。歴史もイワレも分からないが、それと知らずに自宅に向かう途中、丸い球体が点滅する美しい灯りに目を奪われた。


3年生は就職の結果が出始め、進学する生徒は推薦の出願が始まる。
 毎年のことであるが1、2年生ののんびりした雰囲気とは違い、3年生はどことなく緊張感が漂い少しずつ大人になっていく。
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 暗くなるまで生徒と入試問題に取り組んで、心地よい疲れとともに町の中を通ろうとしたら、この風景である。

 なぜか祭りを見ると、きまって時間が停まる。時間が横でなく縦に流れる感じがするのである。

 高遠の町にも宮沢賢治の世界はある。
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今日9/21は賢治忌である。

 宮沢賢治はファンも多く、それぞれ色々な思いをお持ちであろう。

 「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」等々独特の雰囲気に浸ったものである。漫画では「アタゴール物語」が最も似ているだろうか。
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 養老孟司さん(ちくま学芸文庫の「カミとヒトの解剖学」)によると三島由紀夫は「目」の作家、宮沢賢治は「耳」の作家であるという。三島は生まれたときの記憶があり産湯を見たという。宮沢賢治の小説には例えば「オッベルと象」の中で、稲こき機械が回る「のんのんのんのんのんのん」などの音が溢れていて、三島の小説には音が表に出てくることは少ない。

 視覚優位な場合と聴覚優位な小説家の場合では耳の方が難解で深いという。「目」を扱う脳の部分が「耳」を扱う部分よりも脳の表面に近く、発生学的にも新しい。
 扱うのも言語化された理論的なものをあつかう。

 一方「耳」を扱う脳の部分はより深い場所にあり、意識としても未分化なもの、言語化されづらいものをあつかう。

 宮沢賢治を読んでいると、鉱物や星や花の感覚が実体化してきて稲垣足穂翁のいうA感覚に入り込んでしまう。
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 数日前に書こうとした。

 しかし、色々調べるうちに愛するものを奪われた人、現在も後遺症で苦しんでいる人などのことが、どんどん鉛のように重くなり、結局書くことができなかった。

 死刑で購えるほど彼のしたことは軽くない。

 しかし、冤罪になりそうだった松本の河野さん(テレビや雑誌での言動を知るにつけ知性的な人だと思う)が「サリン事件が何だったかを知りたい、死刑を宣告するだけが裁判ではない」というような趣旨のことを語っていた。

 私もそう思う。善悪を超えて世の中で起きること、存在するものには何かの意味がある。たとえサリン事件でも。

 されば、その意味を知りたい。そうでなければ、亡くなった方々や現在も苦しんでいる人たちも救われない。

 それは、自分の意志でなく世の中に出現した自分達の「生」を考えることと同値であろう。
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