昨日は、同僚のH氏の日本史の研究授業があった。事実の羅列ではなく、歴史のうねりを解説する、素晴らしい授業であった。
 この授業を聞いて、自分の高校時代の授業は何だったろうか?と思わず考えてしまった。

 H氏は日本史の専門家であり、何事にも鋭い意見を披露してくれる。
才能のある若い人を見るのは気持ちいいものである。

「しゃぶしゃぶを食べる会」と銘打って、同僚と宴を催した。

 研究授業の慰労も兼ねての宴であったが、途中から単なる酔っぱらいの集合になってしまうのは、いつものことである。みな、頃合いにできあがって、2次会を目指す。

 2次会は、歌って踊れるママのいる「エミ」というバーである。歌い、飲み、大騒ぎをして、みなテンションが上がり絶好調となる。

 後ろ髪を引かれる思いであったが、次の朝、用事があるので、少し早めに失礼する。

天竜川沿いに歩いていると、夜中の12時という遅い時間もあいまって、さすがに寒い。

 信州の冬がすぐそこに来ていることを実感する。



 
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 マックの心変わり、といっても、Mr.Macが他の女性に浮気する話ではありません。

 Apple社のコンピューター Mac のことである。IBMのPowerPCプロセッサから Intel 社のプロセッサにCPU が替わるというのである。

 それでも、同じOSが使えるだろうか?直感的には100%同じというわけには、いかないように思える。

 脳を考えるときには、コンピューターと比較して考えていくと、随分見通しが良くなることがあるし、その逆もいえる。

 CPUが違うのに、同じOSを使うとは、脳に置き換えると、どういうことなのか?

 脳が違う地球人と異星人が、同じ言語を話すことに近い状況ではないだろうか。

 言語は脳の構造に依存せざるを得ない。
したがって、脳の構造が違う場合、その能力を十全に生かした上で、全く同じ言語を使おうのは難しい。脳の能力を制限すれば別である。

 人間の使う言語に該当するのは、コンピューターではOS だろう。CPUが違えば、その特色を生かそうとすれば当然、話す言葉、すなわちOS は違う。制限すれば同じOSも使用可となるのは、脳の場合と同様である。
 
 しかし、現在、異なるコンピューターの間で、エミュレーター
(あるシステム上で他のOSやCPUの機能を再現し、そのOS(CPU)向けのアプリケーションソフトを動作させるソフトウェア)
というものが存在しているが、100%互換とはいかないのが、現状である。(異星人とは、完全には、理解しあうことはできない、我が家と同様である…というのは冗談です。)

 それは、努力すれば、どうにかなる問題ではなくて、CPUが違うことに起因している。

 逆にいえば、もし、CPU その1 CPUその2の間に、 あるエミュレーターが存在して完全に互換になれば、二つのCPUは同じと定義して差し支えないように思える。

 コンピューターに詳しい人にご教授願えれば幸いである。

 でもな〜、昔からのファンとしては、マックの心変わりは少し淋しいのである。
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 10/29(土)のことである。

 この日は信州大学でゼミがあるので、新宿の高速バスターミナルから、松本行きに乗り込んだ(いつも、伊那行きばかりで、この路線に乗るのは初めてである)。

 うつら、うつらしながら、ぼんやりと目を覚ますと、路肩にバスが停まっている。
 
 変だなぁ、と思っていると、運転手さんが「申し訳ありません」と言いながら、後部にあるトイレに駆け込んだ。

 「ゲ〜ッ」吐く声が聞こえてきた。しばらくして運転席に戻り、「少し具合が悪いので、予定にはありませんが、次のサービスエリアで休憩にします」、放送が入った。

 気のせいか、バスは少し蛇行しているような気がする。運転の方は大丈夫か、不安になる。

 サービスエリアに入ってもバスのトイレに入ったまま出てこない。出発時間になってまた、運転席にもどり、ハンドルを握る。

 アナウンスが入るたびに、「ハア、ハア」と、苦しそうな息づかいが聞こえてくる。

 何とか、松本のバスターミナルにたどり着き、ホッとした乗客は、私だけではあるまい(運転手さんも気の毒だが、ホント怖かったです!)。

 
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 10/28(金)の夕べに開かれた、兎束俊之ヴィオラ・リサイタルの報告です。
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 午後、前述の「プーシキン美術館」を鑑賞して、銀座の「画廊宮坂」に寄り、煎茶喫茶の「佐人」で義兄とお茶をいただいた(お義兄さんいつも、ごちそうさまです)。
 一路、トッパンホールへ向かう。飯田橋駅までは順調だったが、駅から会場までけっこう距離があり、20分近くかかって歩き,汗ばんでしまった。

 400人の会場だったが、満席となり50人くらいが入れなかったようである。

 素晴らしい演奏で、とくに兎束先生の作曲による、琵琶との合奏は印象に残るものであった。

 やんごとなき方も最後までお聴きになっていて、こちらもつい、そちらの方を見てしまいました(SPが20人くらい警護にあたっていた)。

 演奏会のあと、宮田村の皆さんと、お祝いと慰労をかねての飲み会に向かう。

 場所は、東中野の兎束先生御用達の居酒屋である。
 2階が貸し切りとなっていて、気楽なお店で料理も美味しく酒もすすんだ。

 琵琶奏者の田中先生、ピアニストの石井先生なども参加されて、貴重なお話を聞くことができ、演奏会の余韻も相まって、贅沢で美味しいお酒であった。
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# by coolkai | 2005-10-30 18:12 | 音楽
 
昨日10/28(金)の午後「プーシキン美術館」を鑑賞しに、東京都美術館に足を運んだ。

 ルノワール、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、マチス、ピカソと名前を並べただけでも、そのスケールの大きさが分かる。ロシアの「プーシキン美術館」の主な作品をそっくり再現したものである。
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 その他にも有名な画家の作品が一杯あるのだけれど、それだけで紙面が終わりそうなのでこれ以上はかきません。

 絵を見て、いつも思うのは、自分の理解出来る方向の絵と、どこからこんな発想が浮かんでくるのかと思う絵があることである。

 人間という動物は一種類ではないと思う瞬間である。

 私にとっては、セザンヌが自分とは方向が違うタイプの絵である。何回見ても対象の捉え方が、随分違うことが分かり、刺激をもらう、ルドンなどもその典型である。

 私にとって《いい絵》は2種類あって、一つはこのタイプの《新しい観点を与えてくれる》タイプの絵である。

 もう一つは《そうそう、こう見えるよね》タイプで、モネとかミロ、マチスはこの分類に入る。これは、絵の上手い下手とは関係の無いものであるように思う。

 不勉強で、知らなかったがマルケという画家の絵が《そうそう、こう見えるよね》タイプで、見ていて凄く心地よかった。

 気楽に描いているような、手抜き加減が至極良い(実際に手を抜いているかどうかは知りません)。

 おおよそ、絵画史の大きな流れ別に工夫された展示で、鑑賞しやすい配置であった。

 少し、贅沢をした気持ちで美術館を出た。
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 前日、白土三平の「カムイ伝」について書いたときムズムズしていたのだが、案の定、漫画について書きたくなってしまった。

 まず、岩明均の作品についてあれこれ。
 
 最初に読んだのは「寄生獣」である。
 宇宙人が人間に寄生する話で、一見、突拍子も無い話だと思いつつも読み進めると、いつのまにか物語の中にすっぽりハマっている自分を発見する。

 題材は奇異でも、人間の深層を捉えて離さない。グググッとえぐってくる感覚が秀逸である。

 次に読んだ本が「七夕の国である」。大昔、宇宙人と人間との交配が行われた、その子孫の物語である。e0020386_813621.jpg
 形式的には完結しているのだが、内容的には絶対に未完である(と私は信じる、続きを強く望む)。

 この本も「寄生獣」に劣らず、設定は奇想天外なものである。しかし、宇宙と人間との関係、神とは何かを追求している(が、惜しい所で無理矢理終わっているように見える)。

 人間の内面と宇宙とが共振していく様子が、暗示されている。

 この二作のように、架空の世界を描きながら、しっかりとリアリティーがある。こんな作品を他に知らない。

 次作を期待する。「七夕の国」続編が出ないかなぁ!
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小学館から白土三平「カムイ伝全集」が出る。

 欲しい、しかし高い。全38巻47880円である。

 学生の頃「ガロ」に連載されているのを読んだのが初めである。「つげ義春」も読んだことを思い出した。

 そうやって、漫画談義になるときりがないので「カムイ伝」に戻る。

 徳川時代の話である。非人部落に生まれたカムイが忍者になり、そこからも脱出して、抜け忍となり、差別と向き合っていく、という身分制度を扱った非常にヘビーな物語である。

 もちろん、いくつかのどんでん返し、さまざまな視点が提示されていく。

 劇画調のタッチは苦手であるが、ギリギリのところで踏みとどまり、独特の効果をあげている。

 社会派の作品が大嫌いな私でも惹き付けられていくのは、安易に善悪をきめつけることなく、事実を必然として受けとめる、その抑制された感覚が好ましいからである。

 第二部が現在も断続的にビックコミックに連載中であり、白土三平氏は第3部を構想中だという、死ぬまで描き続けて欲しいものだ。
 
 完結しない方が「カムイ伝」らしいかもしれない。

 とりあえず、書店で実物を手に取って、それから買うかどうか決めることにしよう。
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 最近、教育の世界ではカウンセリングまがいのことが流行である。

 例えばエンカウンターといわれるものがある。

 エンカウンターとは,ホンネを表現し合い,それを互いに認め合う体験のこと…らしい。

 ひねくれ者でいじけ虫の私としては、どうもこの手のものは苦手である。

 たとえ、他人とすぐ仲良くならなくてもいいではないか?いつも鬱状態の暗い性格は不道徳なことであるとでもいうのであろうか?

 私の持論として、必然性の無いものは存在しない。もちろん、これは善・悪とは別の次元の話である。

 ある精神科医が紙面で発言していた。鬱も大事である。なかなか打ち解けないことも役に立つ。

 集団が、積極的で楽観的な人ばかりであったら、どうであろうか?

 それは、それで困ったものかもしれない。そんなときに、ブレーキをかけてくれる人も必要である。

 そうやって色々な人がいて、バランスをとることができる。

 本人が、このままでは苦しいので、本音を打ち明けたいと言うなら別であるが、私なら、本音を打ち明けあう体験などごめん被りたい。

 書いているうちに、自分の性格の悪いのがばれそうなので、この辺でおしまい。

 
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# by coolkai | 2005-10-25 23:42 | 学校
 盲目の天才と言ったら、皆さんは誰を思い浮かべるだろうか?

 数学に興味のある人なら、ロシアの天才数学者ポントリヤーギンと答えるかもしれない。

 しかし、私が今日見たDVDは「Ray」である。

 天才ジャズピアニストであり、天才シンガーであるレイ・チャールズの生涯を描いている。

 幼少のとき弟を見殺しにしたトラウマから、中々脱却出来ず、ヘロインに苦しみ、最後にはそのヘロインにも打ち勝つ姿を描いた秀作である。

 もちろん、ジャズを創っていくレイ・チャールズの奇跡の才能も余すこと無く描かれる。

 盲目の黒人が南部で生きていくことの困難さに、思いを馳せるとき、彼の努力と天才に驚くほかはない。

 レイ・チャールズの世界を知るのに是非見て欲しいものの一つである。

 全編、ヒット曲が流れる。それだけでも楽しめる。
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 宮田村の皆さん約20名と、今週の28日(金)に東京の飯田橋にあるトッパンホールへ集合する。

 「兎束俊之ヴィオラ・リサイタル<半世紀の軌跡〜Violaと共に> 」を聴くためである。

 兎束先生は「アンサンブル信州in宮田」(宮田村の有志の方達が主催している弦楽合奏)の音楽監督で、東京音楽大学の元学長である。

 私は、ひょんなことから「アンサンブル信州in宮田」の後援会員になっていて、演奏会には都合がつく限り行くことにしている。

 その音楽自体も感激することが多いのだが、その後の慰労会で、兎束先生をはじめ、宮田村の人たちと杯を重ねて、語り合うのも大変心地よい。

 その兎束先生が、大げさにいえば、ヴィオラ人生をかけてリサイタルをするという。

 こりゃ聴きにいかねばなるまい!ということでトッパンホールである。

 やんごとなき方もお見えになるので(兎束先生はヴィオラの家庭教師をしている!)、みなネクタイ着用で集合である。

 演奏会の後、近くの会場で懇親会も予定されている。

 それも含めて、いまから楽しみにしている。
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# by coolkai | 2005-10-23 22:31 | 音楽
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 プルーンが知人に人気である。

 プルーンをご存知であろうか?

 私は、よく、ブルーベリーに間違えてしまうのだが。

 知り合いに送ると大変喜んでいただける。特に都会の方には好評である。
 東京などでは、あまり果物屋さんに置いてないようである。

 効能を書いてみる。

 *カリウム、カルシウム、ビタミンA・Bが豊富で、肩こりや食欲の増進、疲労回復に効果あり。
 *鉄分が多いので、貧血の解消。
 *良質の繊維分をたっぷり含んでいるので、便秘の解消にも大変効果がある、等々である。
 そして、なによりも美味である。

 実はこのプルーンは、妻の叔父さんが日本で初めて(昭和40年)栽培に成功したものである。佐久市(旧臼田町)の土屋喜八郎さんが、その人で、現在はご子息の則明さんが後を継いでいる。

 先日も実家から送られた、新鮮なプルーンを食べた。酸味と甘みのバランスが絶妙であった。

 これが、本当の《さんみ一体》か。
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最近は午後7時近くに帰宅することが多い。

 たいていは面接の練習で遅くなる。3年生の推薦入試が間近だからである。

 純朴で、世間擦れしていない田舎育ちが裏目に出ることもある。
 つい、方言が出たり、友達言葉になったりしてしまうのだ。

 何回も、言い直しをさせたり、話の内容を準備させたり、結構時間がかかる。
やっと、なんとか形になるまで練習して、帰る頃には外は夕闇が迫っている。

 生徒と一緒に学校を出る。
 「先生、ありがとうございました」という声に、疲れも消えていく。

 外に出ると、きれいな夕焼けが…。
 なんだか口笛でも吹きたい気分であった。
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今までの、鑑真和上のイメージが変わった。

 NHkの「そのとき歴史が動いた」に描かれていたのは、権力に負けない、仏教求道者である。

 時の政府の意志とは関係なく純粋に仏法を求め、政府や仏教界から干されても、支援者の寄付で唐招提寺を建立した。
 
 日本最古の私立大学、修行道場であった。

 そもそも中国から日本へ行こうと思い立ったのが、55歳のときである。当時としてはかなりの高齢である。

 高齢でも、失明しても夢をかなえようとする、その実行力が何よりも凄い。

 プロジェクトXに負けず劣らずの中年の星である。元気をもらいました。
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写真はカメムシである。

 窓に張りついているのを、激写したものである。

 天候のせいか大発生している、トンボも多い。色々なイベントがあるのでカメムシもトンボも喜んでいるかもしれない(なんてね…)。

 若者達と話をしていて、カメムシの呼び方が場所によって微妙に違っているのに気がついた。

 隣の町で、もう呼び方が違う。「ヘコキムシ」、「ヘクソムシ」などである。

 この地方は、山、谷が多いので言葉の伝達が遅く細分化されたのかもしれない。

 虫も、山や谷も、どんな出来ごとがあろうと、人間の思惑とは無関係に存在している。

 どんなイベントでもそうだけれど、大きくなればなるほど、何の為のものなのかが何処かにいってしまって、空洞化してしまうことが多い。

 世間を慮りすぎたあまりに、本質を見失って、ヘコキムシに笑われないようにしなくちゃネ!
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 中国の有人宇宙船「神舟6号」が無事帰ってきた。

 二人乗りで、5日間の周回軌道をこなした。ロシアの技術を使っていて、新味が無いという意見もあるが、そうではあるまい。

 日本の宇宙開発でのいくつかの失敗をみていると、素直に評価しなければ、と思う。

 一方、世界最古の麺が中国で発見された。4000年前という途方も無い昔、新石器時代だというではないか。中国3000年の歴史どころではない。

 たまたま、NHKの番組「シルクロード」を見ていたこともあり、中国の時間的、空間的な広さ、深さを感じてしまった。

 テレビでは、「『神舟6号』の帰還という歴史的な日に、靖国に参拝するなんて、我が国に対する挑戦である」と、中国の外務大臣が叫んでいる。

 長い悠久の時間と現代の一瞬が交差する…。
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 5、6年前、恩師のK教授とO市の小学生との話である。

 K教授は囲碁6段、O市の小学生の段位は不明であったが、大変強く、棋力上昇中だということであった。
 
 仲介する人がいて、K教授と、その小学生の対戦が予定されているようであった。

 教授としては、みっともない碁は打てない、1週間か2週間、時間を確保して色々準備してから対戦したいと語った。

 そのとき、同席していた畏友S氏が、おもむろに話し始めた。

 「年寄りよりも(失礼!)若者の方が成長が早い。1、2週間の間に成長するのは、小学生の方である。勝つつもりなら、1秒でも早く対戦した方がいいのではないか。」

 一同、う〜ん!

 勝負の結果は聞きそびれてしまった。
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 私は、小説はあまり読まない。

 しかし、伊坂幸太郎の本は全部読んでいる(はずである)。

 最新刊の「死神の精度」を読んだ。

 六つの物語が収められている。どれも面白いのだが、個人的には書名にもなっている最初の「死神の精度」と、最後の「死神対老女」が好きである。

 何編かは「オール讀物」に書かれているときから読んでいる。いつ読んでも読後感がバツグンにいい。

 小説のテーマは、ギリシャ神話、シェイクスピアなど、書き尽くされているという説もある。
 
 仮にそうだとすると、小説の存在価値はなんだろうか?

 それは、「文体」を含む、内容とは別の「メタ文学」ではないだろうか。

 その点、伊坂幸太郎の小説は、どれを読んでも、その内容とは別に、小説の中の《空気》が爽やかで、知的で、暖かい。どんな殺人事件があっても、それは変わらない。

 彼の本を読んだ後は、いつも、何か暖かいものに包まれ、人間、人生も捨てたもんじゃぁない、という気がしてくる。

 これから、年輪を重ねたとき、どんな風に変わるか楽しみである。
 
*書名:「死神の精度」
*著者:伊坂幸太郎
*出版社:文芸春秋
*値段:1429円
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 神は存在する。

 これを、証明した人がいる。

 「人間は考える葦である」で有名なフランスの数学者・哲学者パスカルである。

 次のような証明である。

《 1神は万能である。2存在することは一つの能力である。3従って神は存在するという能力も持っている。》

 なんともはや、強引きわまりない論法であるが、当時、パスカルはあるキリスト教の団体に所属して、広告塔の役割を果していたという。

 私は?と訊かれれば、神の存在を信じている、と答えたい。私には今のところ証明ができないので《信じている》としかいいようが無い。

 なぜ、信じるのかと問われれば、説明したいことはいっぱいあるのだが…、

 結局のところ信じていたいだけかもしれないし、必要とするから信じているのかもしれない。

 だとすると、近所の猫ちゃんには、神は降臨しないかもしれないな〜、と思いつつ眺めていると大あくびをして何処かへ行ってしまった。

 う〜ん、まだまだ修行が足りないニャ〜!
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 私は、暗闇が怖い。しかし、求めてもいる。
 
 これだけ、文明が進み人工的なものに囲まれている現在では、動物としての人間にリセットしてくれるものが必要だからである。

 人間を原始の状態に戻してくれるもの、それは、多分二つある。
 
 一つは、火であり、もう一つは暗闇である。

 私の住むところは、田舎である。それでも真夜中になっても真っ暗にはならない。しかし、勤務先の高遠町や、その先の長谷村の奥に行くと良質な真の暗闇に遭遇することができる。

 不便な田舎であるが、東京では決して得られないものが沢山あるこの土地が大好きである。
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 ひと月ほど前から考えている数学の問題が、解決しない。いつものことだが、あきらめようか、もうすこし続けようか悩む。
 
 あと、1mのところまで来ているのか、100km残っているのか分からない。それが一番困る。

 私の考えている問題でさえそうであるから、プロの数学者はもっと悩むに違いない。

 古くは、角の三等分問題、地図の塗り分けの四色問題など、一生を棒に振った数学者も多かっただろう。

 しかし、その人達の犠牲?の上に数学が進歩したのも間違いないような気がする。
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 ある日、若い友人夫妻とお酒を楽しんだ。

 話も弾み、ゲーデルの不完全性定理に話が及んだ。そのとき、内容をわかりやすく説明することができず、自分としては大変残念であった。

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「数学が無矛盾である限り、必ず証明出来ない命題が存在する」というのが、その内容である。しかも、ゲーデルは「数学は無矛盾である」という命題がその命題であることも証明してしまう。
 つまり、「数学が無矛盾なら、そのことは証明出来ない」ということになる。

 こうして、ゲーデルは知性のある種の限界を示したのである。

 現代を含め、これからの時代をきちんと理解するには、数学や物理だけでなく、その他色々なジャンルの専門的結果を、ある程度知らなくてはならない、そんな時代になってきたのではないだろうか。
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 昨晩は、上諏訪での「酒蔵巡り」の酔いを冷ませて、兎束先生のビオラの演奏会に行ってきた。

 最近、ビオラ、チエロ、などをよく聴く。低弦楽器特有の音色がたまらなく心地よい。

 僕の勝手な思い込みでは、高音は前頭葉など新しい脳に入り、低音は古い脳に入っていくのではないだろうか。

 したがって、高音はより言語的、理性的であり、低音は非言語的、感情的のような気がする。

 畏友、S原さんも言っていたが、ビオラの琥珀色の音色は疲れた心を癒し、そこには、人間を超えた智慧(知識ではなく)が隠されているように思われる。

  特に、アンコールで弾かれたバッハの曲は素晴らしく、泣きそうになってしまった(老人性涙腺ゆるゆる病ではありません)。
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# by coolkai | 2005-10-10 22:35 | 音楽
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 昨日は、午前中諏訪市でゼミをすることになっていた。 乗り継ぎのため降りた岡谷駅が太鼓やら踊りで賑やかである。今にもくす玉が割れそうであった。「中央本線開業100周年」のお祝いであった。へ〜、そうなんだ、僕が生まれるずっと前からあったんだ、と人ごとのように先を急ぐ私であった。

 お互いの論文の話をし、ゼミを終えて、本日のお楽しみ、「酒蔵巡り」にイソイソとでかける。春のときより一層賑やかで、人出が凄い。 e0020386_20423145.jpg

市販されていない新酒や、樽酒、生酒など流石においしい。パスポート替わりにお猪口を1000円で購入して飲み放題である。呑んべーにはたまらない。実際に飲み比べてみると、銘柄は有名でなくても味わい深いお酒があることを知る。お酒も人間も何でも同じなんだと一人納得。こうした、フワフワとした時間や空間もなかなか捨てがたいもので、いつものように浮遊し始める僕であった。
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昨日も雨、明日も雨である。今日の午前中だけ晴れた。いいタイミングで競歩ができて、ほっとしている。山の中の関門で受付をし、水、飴などを配る。例年だと、少し脇道に入って、沢山のキノコを集めることもできるのだが、今年は、暑さが続き雨が少ないままだったので、期待薄である。松茸を見つけたこともあるのだが…。少年少女の汗をかいて走る姿が爽やかである。
 
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 昔の知り合いから会合の通知が来た。さる“偉い人”が《社会的なご褒美》をもらったので、その祝賀会へのお誘いであった。《社会的なご褒美》をもらったから立派な人である、とは本人も周りの人も、よもや思ってはいないだろうが、そういう集まりは、自然発生的なものが好ましい。

 《社会的なご褒美》なんかもらわなくても立派な人は沢山いる。それぞれの立場が違うというだけ、それだけの事である。お医者さんだから偉くて看護士さんだから立派でないという事ではないであろう。それぞれの役割を行っているというだけである。

 介護施設では、もと“偉い人”などが扱いにくい人種の筆頭であるそうである。地位も名誉も関係なく本人だけの魅力で勝負したいものである。
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倉敷にある大原美術館に行ってきた。高そうな名画が目白押しである。でも展示の仕方には
不満がある。e0020386_7125051.jpg全部見せようとする気持ちはありがたいが、ひとつのストーリーにしたがって展示してくれると、なお良かったような気がする。
なんだか、色んな国の美人をいっぺんに見てしまった為に、それぞれの良さを楽しめなかったオジさんの心境である。
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