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《気ままな感想文》無思想の発見-1

 
「ジブン」と「I(アイ)」

 明治時代、屈指のインテリである森鴎外と夏目漱石は日本的な「ジブン」と西洋から輸入された概念、主体的自我「I(アイ)」との間で苦しんだ。

 日本語の一人称は摩訶不思議である。一人称はボク、ワタクシ、ソレガシ等々たくさんある。
 それどころか「ジブンは長野県人である」と使ったり、関西では「ジブン、人参嫌いやろ」とyouの意味で使ったりする。ハッキリ言って滅茶苦茶である。

 それは、次のことを意味している。
 
 明治以前、日本には世間における立て前の「ジブン」はどんな呼び方でもよかったし、歌舞伎などの襲名披露などでみられるように名前だけ、肩書きだけが世間で必要で、通用するのである。

 もちろん、その為にはホンネとしては、相手のことはしっかり分かっているというのが前提である。だから、その場その場に合わせて適当に一人称を変えても大丈夫なのである。

 そこへ、西洋から「西欧近代的的自我」なるものが入ってきた。
 I am a boy. の I(アイ)である。そこでは「西欧近代的自我」を表す言葉は I 以外に無い。そうやって使っていると「西欧近代的的自我」に対応する主体がいかにも存在している錯覚を持ち、いずれ本物の主体的実存(=感覚的にも実際に存在しているような感覚を持つような存在、簡単に言えば、その人にとっての現実)になってしまう。

 日本の一人称のように、しょっちゅう名前が変わったり、youの意味になったりしていたら確固たる I という存在になるはずも無い。

 主体的実存は人によって、「お金」や「北朝鮮」であったり、「『軍国』日本」や「課長」、「校長」であったりする。

 しばらくの間、脳をその現実漬けにしておけば、誰でも何でも現実になるのである。それを、洗脳という。

 こんな一人称の日本の世間では、そんな「自我」が輸入されても何のことやら分からなかったろう。
 
 最初にいった、夏目漱石、森鴎外の苦しみの正体は、この伝統的な日本の一人称と「西欧近代的自我」との相克であったろう。二人はさすがにインテリであったということか。